2010年1月25日月曜日

幸せ

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† 五感の質屋
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「娘さんの命は、永くないでしょう」。
その言葉が、心に突き刺さった。


私には、一人娘がいる。
名前は、慶子。今年で10才になる。
妻をある病気で亡くしてから、私一人で育ててきた。
その娘が、突然にお腹をおさえて苦しみだした。
そのまま入院し、さまざまな検査が行われた。


その結果、伝えられた病名は、妻とまったく同じだった。
「ご存じ…だとは思いますが…」


医師は、妻の担当をしてくれた人物だ。
私にとって、二度目の告知だった。
「…この病気は非常に珍しい疾患です。発症から短期間で、全身の組織が慢性
的に壊死していきます」


言葉の一つ一つが、死刑宣告のように感じられる。


「…前にも申し上げました…わけですが…。現在、治療法は存在しません」


そう。そのセリフは、妻のときに、何度も聞いた。
まさか、娘も同じ病気にかかるとは。
しかし、あのころと事情はまったく変わらないのだろうか。
私は思わず聞いた。


「何とか…。何とか助けていただくことはできないでしょうか…?」


自分でも、それが無理だとは分かっていた。
すると医師は、こう話した。


「いえ、ただ…。以前より、この病気については研究が進んでいます。
そのため現代の医学では不可能でも、たとえば5年先…。もしくは10年先でしたら、治療方法が見つかっているかもしれません」


その言葉が、どれだけ信じられるのか。
それでも、私には希望のように感じられた。
「む、娘は…。それまで大丈夫です…よね?」


医師の反応が待ち遠しい。
しかし医師は、こう言った。


「非常に申し上げにくいのですが…」
医師はためらいながら、言葉を続ける。
「あと一年は持たないでしょう」


その言葉が、私の心に突き刺さった。
 

私は病院を出て、街の中を歩いた。
大事な人間を、2回も失わなければいけないのか。


どんな方法でもいい。
どんな手段でもいい。


娘の命を、何より助けたい。
自分の命を引き替えにしたって構わない。
しかしもちろん、そう思っても何の意味もないだろう。


そのとき。
私が、その店に出会ったのは、必然だったのかもしれない。





「五感の質屋」


看板には、間違いなくそう書いてあった。
 

意味が分からない。
ただ、その看板には、表現できない迫力があった。
私は気がつくと、その戸に手を掛けていた。


「いらっしゃいませ」


中には、およそ質屋とは似つかわしくない女がいた。
黒いドレスを着用し、黒いヒールを履いた、黒髪の女だった。
年齢は20代だろうか。
年の割には、落ちついた立ち振る舞いをしていた。


「質入れをお望みでございますか?」


私はその言葉を聞くと、ハッと我に返った。
「い、いや………。すみません。間違えたようです」
すると、彼女はこう言った。


「あら? お金はご入り用ではありませんか?」
「い、いや、必要ないよ」


金なんて。
金なんてあったって、何の意味もない。
私がほしいのは…。


そんな言葉を、あわてて飲み込む。
私はすぐにそこから立ち去ろうとした。
その瞬間だった。


「じゃあ、お金ではなく、誰かの命なら?」


彼女は突然、そんな言葉を発した。
その言葉に、私の動きが止まる。


「…は? 今、何て?」


「お渡しするのが、誰かの寿命なら? と申しました」


「ど、どういうこと…?」


私は思わず唾を飲み込む。
すると彼女は口を開いた。


「ですからこちらは、お金のかわりに、寿命をお渡しできる質屋でございます」


突然のことに状況が理解できない。
到底、ありえる話とは思えない。
しかし、彼女の言葉には、なんとも言いようのない迫力があった。
私は少しだけ、話を続けてみることにした。


「誰かの、寿命を延ばす?」
「その通りです」
「そのための代償は? 私の命なのか?」
「いえ…。感覚です」
「感覚? 感覚って何だ?」
彼女は笑いながら、言葉を続ける。


「あなたは、私のことが見えますか?」
「………!? み、見えるよ……? まさか幽霊とかじゃないだろ…?」
「あなたは私の声が聞こえますか?」
「………き、聞こえなかったら、話してない…よね…?」
「あなたは…」
「?」


彼女はそう言いながら、僕の頬をつねってきた。
「いだだだだだっ!」
「この痛みを感じますか?」
「なななな、何すんだ!? 感じるに決まってるだろ!?」
「では最後に、こちらをお食べください」


そして彼女は、小さなガムを取り出した。
「どうぞ?」


女の言葉には迫力がある。
私は、思わずそれを手に取った。
「お食べください」
しかたなく、それを口に入れる。
「ん………」
「………」
「ん、んがががががっ!」
アンモニアとカブトムシが混ざったような味とニオイだった。
あわてて口からはき出す。
「なななな、何すんださっきから!」


すると彼女は、にこやかに口を開いた。


「このように人には、『五感』がございます。
目 … 視覚
耳 … 聴覚
肌 … 触覚
鼻 … 嗅覚
舌 … 味覚
の5つのことを言います。
すなわちあなたは、その5つとも、持っていらっしゃるわけです」


「………だ、だから何なんだよ!?」
「その『五感』を質入れするかわりに、あなたの望む方を、延命させていただくわけでございます」
「………!?」


言葉の意味が、よく飲み込めない。
「ご、五感を、し、質入れ!?」
「その通りです」
「………って、ナニか!? じゃあたとえば視覚を質に入れたら、目玉を取られてしまうとか!?」
「そんなことはいたしません」
「じゃ、じゃあ…」


「ただ、あなたの感覚そのものの働きを奪うことになります」
「………」


「それが嗅覚なら、今後一生にわたって、ニオイを感じることはできません。味覚ならば、味を感じることはできません。視覚や聴覚に触覚、すべて同様となります」
「………そ、そんなことが、可能に………」


「可能でございます。あなたから奪うのは、『意志』です。見たい、聞きたい、味わいたい…。そんな意志を、いただくことになります。その結果、あなたはその感覚を失ってしまうわけです」
「………」


にわかには信じがたい。
しかしその言葉の一つ一つには、何とも言えない真実味があった。
「…一つの感覚ごとに、命と引き替えにできる、と…?」


「はい。そのいただきました意志から、我々の取り分をいただきまして、残りを望む方の寿命、5年分に当てさせていただきます」


「…た、たった5年!? 短くないか!?」
「長く感じるか短く感じるかは、人それぞれですが…」
「…となると、全部の感覚を質入れしたら、25年分、寿命を延ばせるわけか…」


すると女は、静かに首を振った。
「それはできません。と申しますか、オススメいたしません」
「え?」
「お客様は、ヘロンの実験をご存じですか?」


「ヘ、ヘロン?」
「心理学者ヘロンは、被験者の視覚をふさぎ、無意味な機械音だけが流れる部屋に寝かせました。
また同時に、被験者の体に触覚をおさえるカバーをつけました。
すなわち、五感のほとんどを遮断した状態にしたのです」


「………そ、そうしたら………?」


「多くの被験者が、数時間で無意味なうめき声をあげるようになりました。同時に、幻聴や幻覚が生じた人間もいたようです。
結果、最大でも『48時間以上もった』人間は『いませんでした』」
「………!!」
「全部の感覚を完全に失うことは、それだけ危険なのです。私もそこまで危ない橋を渡りたくありませんので、質入れは最大でも4つの感覚まで。すなわち延ばせるのは…」
「最長でも20年か…」
「その通りです」


「………」


ここで、私は聞いてみたいことがあった。
「ちなみに、6つめの感覚は、質入れできるのか?」
「6つめ、というと…?」
「第六感とか」


すると、彼女は答えた。
「10円でございます」


なぜ、突然に円換算。
さらになぜ、そんなに安いのか。


「5感に比べたら、クズでございます」
そんなにも。
「さて、どうされますか?」


彼女はあらためて聞く。
私は、考えた。
もしこの話が本当なら、娘の命をそれだけ延ばしてやることができる。
最長でも20年。
今は10才だから、30才までだ。


でも、もちろん人の一生としては、やはり短いだろう。
それに私が4つもの感覚を失ったら、これから私はどうやって働けばいいのか。妻がいない今、娘の家族は私だけだ。
私が働けなくなってしまったら、結局は娘だって生きていくことはできないだろう。
この取引が真実だとしても、何の意味があるというのだろう。


「………!!」


しかし、そこで私は、医師の言葉を思い出した。
たとえ5年だけだとしても、延命そのものができるのなら。
あるいはその間に、治療法が見つかるかもしれない。
そうすれば、娘は死ななくて済むのだ。
私の方も、感覚を一つか二つ失うくらいだったら、生活や仕事にも、そんなに致命的ではないだろう。
だったら…。


「どうされますか?」


女は、あらためて問いかける。
私は答えた。


「では、一つの感覚のかわりに、娘の寿命を5年、延ばしてほしい」


彼女は微笑む。
「その言葉、間違いありませんね?」
「間違いはない」
「承りました。では、どの感覚を質入れしてくださいますか?」


私は、考えた。


視覚。聴覚。触覚。嗅覚。味覚。
このうち、最初に失うなら、どれか。
論理的に考えれば、答えは一つしかないだろう。


「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。どれを質入れしてくださいますか?」


女は聞く。
私は、もう一度考えた。


やはり普通に考えて、まずは「嗅覚」か「味覚」だろう。


もちろんこれらを失うことは痛手だ。
しかし他の3つに比べたら、日常生活での支障は比べものにならない。
嗅覚や味覚がなくても、困るのは食事のときや、何かのニオイをかいだときくらいだろう。
そのときだけ耐えれば、どうとでもなる。


しかし他の感覚がなかったら、24時間にわたって不便に悩まされることになる。
常に人は何かを見ているし、音を聞いている。また衣服でも床でも、必ず何かに触れている。
この感覚がなくなるというのは、かなりの痛手だ。


また視覚・聴覚・触覚ともに、「コミュニケーションの手段になりえる」ということも重要だ。


聴覚があれば、声が聞こえる。
視覚があれば、筆談ができる。
触覚があれば、手に文字を書いてもらって理解もできるだろう。
しかし嗅覚・味覚でコミュニケーションをすることは不可能だ。


もちろん、誰かに何かを嗅がせたり、味わわせたりして、
「塩味がピリッと強ければ怒ってる」
「カレーのにおいは嬉しいサイン」
などと決めることもできるが、さすがに現実的ではないだろう。


いずれにしても、コミュニケーションができる手段は残しておきたいと思うのが当然だ。
となると、まずは「嗅覚」か「味覚」になる。
では、どちらの感覚にするべきか。
嗅覚と味覚、どちらなら失っても構わないか。


ここで私は、ある事実を思い出した。
「味覚」は、「嗅覚なくしては成り立たない」のだ。


カゼで鼻が詰まっていると、食欲は落ちる。
それは、「ニオイ」まで含めて「おいしさ」を感じるからだ。
すなわち、「嗅覚を失って、味覚だけ残しても、結局は味覚そのものまで障害を受ける」のだ。
だったら、味覚だけ失った方が、まだマシだ。


もちろんこれは絶対的な真実ではないかもしれない。
しかし、少なくとも私には、それが正解であると思えた。


私はそこまで考えてから、言った。


「味覚で頼む」


女は私の思考を読み取るかのように、静かに微笑みながら言った。


「承りました。味覚でございますね」
「あぁ。そしてその代わり、私の娘の寿命を延ばしてほしい」
「もちろんでございます。ご息女さまのご寿命、確かに5年、延ばさせていただきます」
「………」
「またご利用のときは、お越し下さい」


なるべくなら、もう二度と利用しないで済みたい。
私はそう思いながら、その質屋を後にした。
 




しばらくして、娘は退院した。
医師によると「病気の進行が、ストップしている」のだそうだ。
完治といえるわけではないが、病状に変化がないため、
「もしまた症状が進行するようなら、もう一度来てほしい」
と言われ、いったん退院となったのだ。


娘は今までとまったく変わらない生活をし、成長していった。


娘は、病気のことは知らない。
ただ「ちょっと具合が悪くなったから入院した」としか考えていない。


それでいい。
娘が苦しむ必要はない。
苦しむのは、私だけでいいんだ。


しかし私には、予想外のことがあった。


味覚を失うこと。
それは想像より、ずっと苦痛だった。


何を食べても、味のない粘土を噛んでいるような気分になる。
そのため、食事のときの喜びが0になる。


くわえて腐った食べ物であるか分からないため、不安ばかりが強くなる。
すると、食事そのものが、苦痛でしかない。


そんなときは、娘を見ることにした。
病気のこともなかったかのように、毎日すくすくと育っていく娘。


それを見ていると、その苦痛を忘れられた。


娘の病気の治療法が開発されたかどうか。
私は毎日のように、医師に電話をして聞いた。


しかし答えは、いつも「NO」だった。


いつしか私は、病気のことを忘れていった。
娘は、治っているんじゃないか?
タイムリミットなんて、ないんじゃないか?
少しずつ、そう考え始めていた。


それが甘いことを感じたのは、娘の15才の誕生日だった。
娘は前とまったく同じように、腹部をおさえて苦しみだした。


「お父さん…。痛いよ…。痛いよぅ…」


その言葉や表情が、私の心を、再び「現実」に引き戻した。


もう、選択肢はなかった。


毒を食らわば皿までだ。
私は再び、その質屋に向かった。


「あら、お客様。ご無沙汰しておりました」


女のビジュアルは、あのときとまったく変化がなかった。
いや、黒い衣服、髪、そして目は、さらに深い黒さを増していたように見えた。


「…また、質入れされますか?」


女がそう聞く。
前の思考の流れから、次に失う感覚なら、一つしかない。


「嗅覚で頼む」


女は、静かに微笑む。
「…承りました。ではお望みの方の寿命、さらに5年、延ばさせていただきます」


娘はまた元通りの生活に戻った。
これで娘の寿命は、20才まで延びた。


もうこれ以上延ばすことは、簡単にはできない。


残る、3つの感覚。
視覚、聴覚、触覚とも、安易には失えない。


今からの5年で治療法が開発されなかったら、どうなるのだろう?


暗闇か。無音か。無触覚か。
どれかを選ばなければならない。
最初の二つのように、すぐに選べるものではない。


その5年は、娘にとっても、私にとっても、重大なタイムリミットだった。
 

においのない世界は、想像以上につらかった。
「アロマセラピー」というものがある。
人間に香りをかがせることによって、気持ちを落ち着けたりする治療法だ。


それに限らず、人間はニオイを嗅ぐことによって、安心や快感を得たりする。
綺麗な話ではないが、時に脚のニオイや、ワキのニオイを嗅ぎたくなってしまうことだってあるだろう。
臭い香りであっても、人はニオイの刺激によって、安心するのだ。
さらに異性の香り、またシャンプーや香水の香りによって、気持ちが高まることだってあるだろう。
これらの働きが、まったくなくなるのだ。


毎日の生活にたいする刺激や喜びが、少しずつ失われて来るように感じる。
私は、聴覚があるにも関わらず、「世界から、音が一つ消えた」と感じた。
 

娘の治療法は、いくら待とうとも、開発されなかった。


味と香りのない生活のつらさとあいまって、イライラすることが増えた。
また娘も、18・19になるにつれて、少しずつ私にたいして反抗しはじめた。
お互いにストレスを抱え、口論になることも、少なくなかった。


そのたびごとに、娘にたいして、言いようのない怒りを感じ始めた。


私は。
私は、誰のためにこんなに大変な思いをしていると思っているんだ。
私がどれだけ自分を犠牲にしていると思っているんだ。


すべて、お前のためじゃないのか!?
自分の献身的な行動が受け入れられないほど、つらいことはない。


私の人生そのものが、まったく意味のないもののように思えた。


もしこのまま治療法が発見されず、20才の誕生日を迎えたら。
また私は、さらに自分を犠牲にして、娘の命を延ばすことができるのか?
自信をもって、その問いかけに答えることができなかった。


私はワラにもすがる思いで、医師に電話をし続けた。
医師は言う。


「まだ見つかりません。しかしあと少しで…。必ず開発できるはずなんです」
「あと、どのくらいで?」
私の質問に、医師は答えた。
「…あと、10年弱の間には…」


それは、さらに二つの感覚を失うことを意味していた。
 

娘の20才の誕生日を間近に控えた日、私は決心した。
もう、すべてを話そう。
どれだけ私が頑張ってきたかを。
そして、もうこれ以上続けることはできない、ということを。


娘もまもなく、20才になるだろう。
人生として、十分に味わったじゃないか。
もう、いいじゃないか。


これが、運命なんだ。


私は自分に言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返した。
「話がある」


私は娘を呼ぶ。
そのときだった。
娘は、こう言った。


「あ、あのね、私の話から、先に聞いてくれる?」


何だろう。
私は不思議に思いながら、話を聞く。


「あのね…」


娘は、しばらく言うのをためらいながらも、口を開いた。
恥じらいながらも、とても幸せそうな顔で、こう言った。

  
「お父さんに、会ってほしい人ができたの」
 




「…いらっしゃると思っておりました」


質屋の女は、あいかわらずの姿で、そこにいた。
私は彼女の顔を見るやいなや、思いの丈を叫んだ。


「娘を…。娘を幸せにしてやりたい…!
たとえ30才までだって、構わない…!
好きな男と結婚し、幸せに過ごす。
最後にそれくらい、味わう時間を、作ってやりたいんだ…!」


私は、娘に妻の姿を重ねていた。


同じ病気のせいで、妻は娘を産んで、すぐに死んだ。
私はおそらく、妻を幸せにしてやれなかった。


だからこそ、せめて娘を幸せにしてやりたい。
そのことに、今気がついたのだ。


女はそれを聞き、静かにうなずいた。


「それでは…」


「あと二つ。最大まで質入れさせてほしい」


結婚をするのなら、生活の心配はないだろう。
たとえ私がどうなろうとも、娘そのものは生きていくことはできるはずだ。


「承りました。視覚、聴覚、触覚のうち、どの感覚を質入れ…。いえ…」
女は息を吸い、言い直した。


「どの感覚を、残されますか?」
 

答えは、決まっていた。





「視覚、聴覚、触覚。どの感覚を、残しますか?」


女は、もう一度聞いてきた。
この質問を、今までに心の中で、何度繰り返してきただろう。


目か。耳か。肌か。
私が唯一残せるとするなら、どれにするのだろうか。


毎晩、そのことばかり考えてきた。
そして今、その答えを決めなければいけない。


私は、心を決めていた。
「………で、頼む」
「………承りました。後悔はなさいませんね?」


「あぁ…。しない」
「承りました。では、そのかわり。お客様の望む方の寿命を、10年延ばさせていただきます」
「あぁ…。頼む…」


私は静かに返事をした。
「それではお客様は、今から、残りの二つの感覚を失います」


「…あぁ…。好きにしたらいい」


「ただ、です。実際にこの商売を長く続けておりますが…。
4つの感覚ともに質入れできる方は、なかなか少ないものです。なぜなら感覚を失っていくことは、寿命を削られることより、ずっとずっと苦しいものだからです」


「………」
それはもう、今までで十分に理解した。
「いいから早く…」


「いえ、すなわちお客様のような方は、当店にとって、大のお得意様。ですのでサービスとしまして、もし失礼でなければ、この後のお客様の生活は、当社が面倒を見させていただきます。大切なお得意様の、ほとんどの感覚を奪ってそのまま放り出して、あとは知りません…では、当社の評判にも関わりますので」


私は、考えた。
嗅覚や味覚と違い、他の感覚がなくなれば、もちろん娘には隠し通すことはできないだろう。
そこで苦しむ姿を、娘には見せたくない。
いやそれ以前に、私の存在が、彼女の人生において、重荷になる可能性だってある。


娘には、何も心配をしないで、生きていってほしい。
今の私には、それだけが一番の願いだ。


「どうされますか?」
「………」


私はしばらく考え、絞り出すように、こう言った。


「頼む」

その言葉に、女は静かに微笑みながら言った。
「承りました」



 

あれから、何年の月日が過ぎただろう。
私は、たった一つだけの感覚を持ちながら、いまだに生きている。
今、私がいる場所は、質屋が用意してくれた施設だ。
詳しくは知らないし、知りたいとも思わない。
たまに誰かが来て、食事をくれる。
ただそれを、栄養のためだけに食べ、生きているだけだ。


でも、後悔はしていない。


娘の病気は治っただろうか。
もしくは結局、治ることはなかったのだろうか。


それだけが気になった。
しかしたとえ短い間といえども、娘が幸せな生活を送れたかもしれない…。


そう思うことが、何よりの自分の安らぎだった。



 

私は、この施設に来る直前に、質屋で女とかわした会話を思い出した。


「聞かれませんでしたので、あえて申し上げませんでしたが…。
五感を、再び『買い戻す』ことが可能です」


「買い戻す…?」
「そうでございます。感覚のかわりに、寿命を差し上げたわけですから…。逆はすなわち」
「寿命を延ばした人間の寿命によって、感覚が戻る…と?」
「その通りです。その場合、一つの感覚につき、20年が必要です」


「20年? 5年じゃないのか?」


「それはもちろん、利子や手数料も込みでございますので」
「………」
「すなわち今回であれば、お客さまの愛娘さまが、『お父さまの感覚ために、20年ずつ寿命をなくしてもいい』とお考えになったら、感覚が戻るわけです」


「………」


もし。
もし、娘の治療が成功したのなら。
娘の寿命は、さらに先まで延びるだろう。
そのとき、女は娘に、すべてのことを教えてくれると言った。


そしてその上で、娘が私に寿命を返してくれるというのなら…。
私は感覚を取り戻すことができるだろう。
その場合、娘を私の元に、連れてきてくれるという。


でも。
すべてが単なる可能性に過ぎない。


もし、私の感覚が今後もずっと戻らなかったのなら…。
それは、治療が間に合わなかったか、もしくは娘が寿命の受け渡しを拒否したか、ということになるだろう。
だったら、後者であることを願わずにはいられない。


私は、今の自分に、満足していた。


感覚が一つしかないということは、とてもつらいことだ。
でも、この感覚一つだけが残っていれば、不思議と安らぎはあった。


さびしさは、もちろんある。
でも、今までの幸せな記憶が、この感覚と共に残っている。
だから、大丈夫だ。


そのときだった。


手が、触れた。


私の手を、ぎゅっと握りこむ感触。
女性の手の肌ざわりだった。


まさか。
その気持ちは、すぐに確信に変わった。


娘の手だ。
間違いない。


「………!」


私には、分かる。
手に触れるぬくもりは、娘のものだ。
体に触れるあたたかさは、娘のものだ。


次の瞬間、私の胸に、その女性が飛び込んできた感触があった。
あたたかかった。



 

私は、視覚か聴覚か触覚か迷っていた。


最後に決めた理由は、「どの感覚で、自分がもっとも幸せを感じたか」だった。その感覚を失うことで、その幸せまで失ってしまうような気がしたのだ。


それが、「触覚」だった。


目だけが見えても。
声だけが聞こえても。


触れた感覚がないなら、テレビと同じだ。
そこにいる存在感が、何も感じられない。


しかし、逆に。
体温や触覚が感じられるなら。
何も見えなくても、何も聞こえなくても。
相手の存在を、何より感じることができる。


幼いころに抱かれた母親の感触。
はじめて触れた、妻のぬくもり。
生まれたばかりの娘を抱きしめた温かさ。


その記憶があったからこそ、私は幸せを忘れないまま、生きてこられた。


腕に、涙と思われるしずくを感じた。
肩に、嗚咽の呼吸を感じた。


私は今、確かに娘と、ここに存在している。


そう。
ぬくもりさえあれば、人は生きていけるのだ。


娘は私の手に、字を書いた。


「ありがとうと何度言っても足りません。お父さんからもらった命です。
お父さんの感覚を、私の寿命で、戻して下さい。」


私はそれにたいして、静かに首を振った。


もう、十分だ。
お前はこの感覚を、できる限り生きて、大切な人に伝えてあげなさい。


娘が、さらに泣く感覚が伝わってきた。
そして、直後。

 

 

私の腕に、娘よりも小さな手が触れた。

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泣いた
メッチャ泣いた

自己犠牲・相手の幸せ・自分の幸せ
俺にとっての幸せってなんだろう?

感じたことも無い
だから求めてしまう

きっとすごく難しいんだろうな
俺の望みって
だからこそ実現した時に「幸せ」を感じるんだろう

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